2024年4月に入り、2016年夏までの古い記事の画像リンクが切れました。
対応は現アルバム経由での再貼付しかなく、徐々に進めています。
前後の記事が直ってないのに、ポツンと直っている記事もあります。
完全復旧までには相当の期間がかかる見込みです。

2009/10/11

09.10.11 パー線

昼過ぎにふらりと出かけ、向かう先は木更津。リバイバルカラーとなった久留里線キハ30を記録したくて。
乗っちゃうと帰ってくるのが大変なので、木更津で撮って戻るつもりだ。

京葉線で蘇我へ出て、内房線へ。先に着いた外房線は211系。


211系(蘇我)

「外房・東金線」の幕を出した成東行の211系。じつは私がこの幕を見たのは9月23日が初めてで、千葉中央駅のホームからだった(たぶん写真と同じダイヤの列車)。元々あるようだが、写真ですら見たことがなかったのでちょっと驚いた。律儀に「東金・外房線」の幕もある。
房総各線はこの10月から一部トイレ取付やセミクロスシート化も施した209系(2000・2100番台)が走り始めた。今後は209系で113系と211系を置き換えていく。
211系が房総で走り始めてまだ3年だが、早くも追われる立場になった。今後は4連に縮小した上で中央東線の115系置き換え用に再転用される見込み。帯色は変わるんだろうか?

館山行113系で木更津へ移動。
八幡宿でガラガラになりボックス独占。靴を脱いで向かいのシートに足を伸ばすとラクだ。

木更津に着くと、久留里線の車両の姿はなかった。
総武線からの快速と特急「さざなみ」からの客を乗せて7分前に出たばかり。1時間1本なのでかなり待たなければいけない。


113系(木更津)

113系もまだまだ数があり元気だが、撮れるものは撮っておく。
ちなみにこの日湘南色の姿は拝めなかった。現在は6連も登場している。

15時7分着の久留里線上り列車が意外にも4連でやってきた。観光客対応なのかな?



久留里線キハ30+キハ38+キハ38+キハ37(木更津)

内房線下り3番線と久留里線用4番線は1本の島式ホームの高さを変えて使用している。境目には柵があり、千葉よりの柵が直角に向きを変えている場所から狙った。…のだが、見ての通り。周りがゴチャゴチャしている。
残念ながら国鉄色ツートンのキハ30は入っておらず。


久留里線キハ37(木更津)

久留里線車両すべてに貼られているタヌキのシールは、童謡で有名な證誠寺(しょうじょうじ)が木更津にあることから。木更津駅の発車メロディもまさにその童謡が用いられている。
ちなみに久留里線は「クルクルパー」のイメージから地元では「パー線」と呼ばれているとか。

キハ37は1983(昭和58)年に登場した気動車で、一般形気動車のコストパフォーマンスを高める目的で作られた。
気動車需要の変化のため量産先行車としての5両が最初で最後の製作となった。3両が木更津に、2両が姫路に配属された。
姫路の2両は加古川線での使用後、山陰本線・境線を走り、長らくの休車を経て今年廃車。
いっぽう木更津の3両は木原線と久留里線で使われ、木原線のいすみ鉄道転換後は久留里線専用となって現在まで生き残っている。


久留里線キハ37+キハ30(大宮・1991)

新製時赤一色だったキハ37はJR化後に写真のクリームと青の久留里線色に変更。
現在の久留里線色は2代目で、3本のストライプはどこか初代のイメージにつながる。


久留里線キハ38(木更津)

入線時に中間に向き合って入っていたキハ38が顔を出した。列車到着後、上総亀山方2両(キハ37+キハ38)はお役御免で一旦スイッチバックしてから奥の車庫に引っ込んだのだ。

キハ38は八高線用にキハ35系を改造して製作された車両で、車体は新製されている。
こちらも製作は7両だけという少数派で、八高南線の電化時に非電化で残った北線はキハ110系に統一され、すべて久留里線へ移ってきた。現在も全車活躍中。


八高線キハ38(八王子・1992.5.11)

八高線時代のキハ38。デビュー時から八高線ではずっとこの塗色で、そのままの姿で久留里線に移籍後、初代久留里色を半年だけ纏ったあと現行色に再度塗り替えられたそうだ。
正面は211系風に左右の窓の上下がくぼんでいるものの、写真の八高線色と初代久留里色のときは貫通扉上も黒に塗られていた。
現行色はようやく車体デザインに合わせてくぼんだ部分のみ黒の状態となり、キハ30・キハ37も同じように塗り分けられている。


久留里線キハ30(木更津)

キハ30は通勤形気動車ともいえるキハ35系のトイレなし両運転台車で、片運転台車がキハ35(トイレ付)とキハ36(トイレなし)。中間車は存在しない。
キハ35系は101系電車を基に3ドア・気動車化したような車両。気動車なので低床ホーム対応のステップが必要だが、ステップ付両開き3ドアは台枠を切り取る面積が多くなる。で、車体強度を保ちつつ自重の増加を抑制する都合から出た答えが戸袋を必要としない外吊りドアだった。また多くの車両が前面に補強板を設けたこともあり、全体的に凸凹した武骨な車両というイメージがある。
400両を超える大所帯だったが、現在JRで生き残っているのはこの久留里線のキハ30の3両だけとなった。久留里線はキハ30・キハ37・キハ38の所属3形式すべてが稀少車というわけだ。


久留里線キハ37+キハ30(大宮・1991)

初代久留里線色のキハ30は片運転台のキハ37とはちがって側面は前後対象のデザイン。
写真の車両はベンチレータがグロベンではなく押込式のタイプだ。


相模線キハ35(橋本・1991)

同じく南関東の非電化線区・相模線のキハ35系も初代久留里色と同じ2色を用いた専用塗色になっていたが、こちらはすこぶる地味で落ち着いていて、横浜市営バスのよう。
前面補強板は形そのままに塗り分けられ、斜めに車号が入れられたのが唯一の遊び(斜めにしないと車号が入らないという理由もあるが、別に入れなくてもいいわけで)。補強板がない車両も同じように塗られていた。


八高線キハ30(八王子・1991)

ついでのついでで八高線キハ35系。私の撮った非電化時代の八高線は先のキハ38とこの写真しかない。
これは首都圏色のキハ30。八高線でもキハ38との混結使用があった。電化前の川越線でもキハ35系は重宝されていた。


国鉄色に出逢えなかったのは残念だが、予定通り木更津を後にした。(つづく)

(右フレーム上部から入れるアルバムに、掲載した写真をカテゴリ別にまとめています)

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