2024年4月に入り、2016年夏までの古い記事の画像リンクが切れました。
対応は現アルバム経由での再貼付しかなく、徐々に進めています。
前後の記事が直ってないのに、ポツンと直っている記事もあります。
完全復旧までには相当の期間がかかる見込みです。

2009/10/26

千代田線・常磐緩行線 なつかし写真

今回はグリーン・トレインズのなつかし写真。


北綾瀬支線


営団5000系(綾瀬・1989)

北綾瀬支線用ステンレスの5000系3連。0番線はホームドアもそこまでの柵もなくスッキリしている。
運行番号幕は東西線はすでに紺色地化が完了していたが、こちらは昔のままの白地幕。この当時でもレトロ感があった。千代田線5000系は正面の車号プレートがなかったが、この頃は白地緑文字のステッカーが貼られていた。
この編成はのち冷改されたが、東西線5000系のような界磁添加励磁制御化はされなかった。1999(平成11)年に東西線を退いてきたアルミ車と入れ替わり引退した。


営団6000系ハイフン車(綾瀬・1988)

6000系ハイフン車は1968(昭和43)年に登場した営団初のチョッパ制御・6000系の試作車。当初から今まで3連のままだ。
登場当時は足回りをカバーで覆っていたり、帯の正面回り込みはライトまでだったりと姿が違っていた。写真をよーく見ると、ライトをくるむ部分とライトの間とで帯の色が違い、間の帯が付け足されたのがわかる。
東西線の地上区間で試運転を繰り返したのち千代田線開業で綾瀬に移り、6001・2・3だった車号は6000-1・-2・-3に改番。7000系用チョッパやVVVFの試験車としても活用された。

綾瀬検車区の回送線の旅客化の要望が地元から出て、それが実現、1979(昭和54)年に北綾瀬駅が設けられた。6000系ハイフン車は足回りを5000系と同じ抵抗制御に変更し、この北綾瀬支線の営業運転に就いた。
写真の当時、ドアは登場時以来の5000系然としたHゴム付窓だった。
現在は冷改されているほかそのドアも交換、前面の2枚の窓のサイズが拡大され、窓の下のクマが量産車並に狭くなっている。


営団6000系


営団6000系(綾瀬・1988)

綾瀬の中線に入った6000系1次車。写っていないのが残念だが、側窓は二段の小さいもの、非冷房で屋根上にはベンチレーターが並ぶ。
東京の地下鉄とその直通先の境界駅でホームに挟まれた1線の中線を配した駅はここと日比谷線北千住だけ。ただし写真当時の日比谷線・東武の北千住はまだ地上の2面4線のみ。




営団6000系(読売ランド前—百合ヶ丘・1991)

二段窓・冷改の1次車が小田急線を走る。小田急線沿線に神奈川県綾瀬市があるが「綾瀬」がつく駅はなく、千代田線の綾瀬駅行はちょっと紛らわしい。
写真当時の小田急直通列車はすべて小田急線内準急だった。しかし準急の通過運転は代々木上原—登戸間だけ。登戸—本厚木は各駅停車だと50〜60分前後かかるので、千代田線から本厚木まで走らせるメリットはあまり感じない。


営団6000系(本厚木・1991.3.15)

小田急本厚木始発の準急我孫子行に入った2次車。
千代田線直通列車が多摩急行主体(平日朝唐木田発は急行)になった現在、柿生以遠—綾瀬間の列車はすべて小田急線内準急で平日本厚木発4本・海老名発1本・綾瀬発2本、休日本厚木発2本と少数にとどまっている。すべて小田急車のため、柿生以遠—常磐線相互間の列車は存在しない。




小田急7000形・営団6000系(向ヶ丘遊園・1991)

LSEと並んだ6000系4次車とその出発の後追い。特急車と通勤車の車体構造の違いがはっきりわかる。
方向幕は紺地・英字入りのものに更新されている。


営団6000系(我孫子・1991)

前記事に登場した5次車29編成(前回記事の取手行)の18年前の姿。車体表記のほかSマークや方向幕、その周りも緑色で、モノトーンになっている。
車体がほぼ同じ有楽町線7000系の車体表記類はラインカラーのゴールドでは可読性に欠けるためか紺色が用いられている。


営団6000系(新松戸・1988.12.4)(d)

6次車33・34編成は6000系では初めて冷房搭載で造られた。Hゴムも初めから黒。
画質が悪いから信じられないが、この写真は落成年のものだ。



営団6000系(我孫子・1991)

7次車35編成は6000系の最後の製造編成。試作車登場から22年経った1990(平成2)年の登場で、すでに日比谷線03系・東西線05系が登場している時代だ。
同時期増備の7000系・半蔵門線8000系とともに、03・05系同様のLED案内装置が車内各ドア上に設置されている。更新車でこれを取り付けたものは千鳥配置で、すべてのドア上にあるのはこの35編成のみ。帯は厚みのあるものからフィルム貼付に替わり、方向幕も紺地・ローマ字入りで登場と印象が変わった。

今後千代田線は新系列「16000系」(…と言われている)の製作が決まっている。2011(平成23)年の小田急のD-ATS-P化に対応した車両となる。この新車投入とあわせて6000系改造により対応編成を揃えていくが、入場により予備車が不足することになり、東西線05系初期車を千代田線に回す構想がある。
そうでなくても千代田線は制御器更新や一部車両の不調などで頭数が足りず、昨年の今頃は東西線移籍のため青帯を巻いた07系第1編成が3カ月ほど千代田線を走っていた。
東西線はラッシュ対策でワイドドア車を再び製作することになり、これが副都心線10000系をベースにした新系列・15000系と発表された。投入予定の13本は05系初期車と同じ数で、05系の余剰車もしくは廃車が出る流れだ。
ほかにも、10000系増備で余る7000系や、E233系2000番台増備で余るJR203系を活かす、なんて話も出ているようだ。


JR203系


203系(馬橋・1988.1.17)



203系(新松戸・1988.12.4)(d)

ともに21年前のマト51編成の姿。量産先行車で、車号がプレート表示となっているのが特徴。
現在は運行番号表示とテールライトがLEDになったが、ほかは大きな変化はない。
馬橋の写真で日光の裏に写っているのは総武流山電鉄(現・流鉄)の「銀河」だ。


203系(我孫子・1991)

我孫子で発車を待つ量産車のトップ・マト52編成。写真左は取手発各駅停車用ホームで日中は使われず、当時も今も寂れている。



203系・103系1000番台(柏・1990.5.6)

新旧千代田線直通車の並び。千代田線は営団6000系・小田急9000形がともに未来的な顔とチョッパ制御を備えた先進的な車両であるのに対し、旧態依然の国鉄103系1000番台は厄介者扱いされるようになった。抵抗制御の足回りからの発熱はトンネル内の温度を上昇させ、北千住—湯島間の長い上下線別単線トンネルでは自然通風式の抵抗器の冷却が不十分で、オーバーヒートによる故障も多く発生したという。電力回生もできないためチョッパ車より電気代がかさんだ。
営団側の要望で国鉄が新たに用意したのが201系ベースのチョッパ車・203系だった。

103系1000番台は順次快速用に転用されエメラルドグリーン1色に塗り替えられた。また西日本のローカル線用に105系に改造された車両も多く、常磐線から103系が去った今も、和歌山線などで103系地下鉄顔が生き残っている。
なお、快速用になったうち1編成だけ東西線直通車の増強用に再転用され、奇跡の地下鉄復帰を果たした。


JR207系900番台


207系900番台(綾瀬・1988)

写真を撮り始めて間もないころの1枚。見事に足回りが切れている。
前記事に書いたとおり正面のJRマークは203系同様ガラスに黒シールを貼った上につけてあったが、現在は黒シールはなくなりガラスが見えている。


207系900番台(柏—北柏?の上り快速車内より・1988)


207系900番台(松戸・1991)

松戸駅を後にして入庫する207系。
前の写真でもそうだが、取手方先頭車のブラックフェイス下辺のラインのズレが非常に気になる。とくに貫通扉と運転台側との段違いが顕著だ。扉が歪んでるのかな?


小田急1000形


小田急1000形「初詣&初日の出号」(綾瀬・1991.1.1)

正式には「初詣&初日の出号」の送り込み列車か。
綾瀬始発で片瀬江ノ島まで直通する元日の臨時列車。この列車に乗るために武蔵野線経由で綾瀬へ出た。のりかえの新松戸のホームで新年を迎えたのははっきり憶えている。
列車は6+4の片方が江ノ島、片方は伊勢原に行ったんだったと思うが… なにしろこの1枚と、そっくりなアングルの片瀬江ノ島駅での「回送」表示の写真しか撮れていない。綾瀬で「片瀬江ノ島」表示を撮れていないのは、着席のためドア位置に並んでいたから。


小田急1000形「初詣&初日の出号」(片瀬江ノ島・1991.1.1)

小田急の写真はそこそこの枚数があって千代田線直通列車の写真を探したんだけど、出てきたのはこの列車のものだけだった。小田急で唯一運行番号を表示するのが千代田線直通列車だ。

(右フレーム上部から入れるアルバムに、掲載した写真をカテゴリ別にまとめています)

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