2024年4月に入り、2016年夏までの古い記事の画像リンクが切れました。
対応は現アルバム経由での再貼付しかなく、徐々に進めています。
前後の記事が直ってないのに、ポツンと直っている記事もあります。
完全復旧までには相当の期間がかかる見込みです。

2009/12/02

京葉線 なつかし写真・1

京葉線は我が地元を走る路線。
ただ私にとってはメトロ東西線がメインラインなので、実はそんなに利用してなかったり。

私の通っていた幼稚園・小学校のすぐ脇が京葉線の高架で、生まれて以来京葉線の建設を見守ったようなもんだ。架線柱が建ち、架線が張られて電車線らしくなってきた頃、ディーゼル機関車(DD51かな?)が牽くオイラン列車を見た。
そしてまた日が経ち、高架に近い位置にある音楽室での授業中、突然青い103系が走り抜けていった。「あーっ」と声を上げてしまった。初めて電車が走ったオドロキと、京浜東北線のお古か、というちょっとしたガッカリも混じった。私は前日学校を休んでいて、同級生に「きのうも走ってたよ」と教えられて恥ずかしかった。

試運転列車は徐々に一日あたりの本数が増え、開業直前には一般参加の「試乗会」が一定期間行われていた。当時どういう形で乗れたのか私は知らなかったのだが、今考えると勿体なかったな。


蘇我口の一部は貨物線として1975(昭和50)年に開業しているが、旅客線としては1986(昭和61)年3月3日に西船橋—千葉みなと間が開業、これが京葉線らしい京葉線の幕開けだ。当時まだ国鉄。5年生の3学期のことだった。
データイムは20分ヘッドと本数がまたまだ少なかったが、朝登校したころの時間帯に、上下線の列車が学校の脇ですれ違った。西船橋行が高架の「3階」、千葉みなと行が「2階」を走る段違いすれ違いはステキだった。

当時京葉線はスラブ軌道丸出しでバラストが敷かれていなかった。使い込んだ103系ということもあって、車内で感じる騒音は地下鉄レベルだった。
学校脇の高架もほどなく防音壁が追加されて、千葉みなと行の列車は方向幕から上しか見えなくなってしまった。のち、バラスト敷き区間が徐々に増えていったと記憶している。

1年ほどしてJR化を迎えた。国鉄時代に関しては開業直後に全線乗り通したが、カメラなど使ったこともなく写真は撮っていない。



103系(西船橋・1988.1.4)(d)

京葉線に配属されたのは京浜東北線などから移ってきた103系6連+4連の10両編成。その編成の変遷はこちらに書いた通り。開業時は日中6連、ほかが10連での運転だった。
写真は日中4連運転の時代。高運転台クハは終日走る西船橋方4連口、クモハは日中休みになる千葉みなと方の6連口で「京葉線」表示。
千葉みなとは開業時「千葉港」が正式表記だったが、駅の案内や列車の方向幕は当時から「千葉みなと」の表記を用いている。この頃は車両のドアの上にある東京近郊区間地図上の表記だけが「千葉港」になっていて、「誤植じゃないか?」と思っていた。東京開業後の1992(平成4)年3月14日にようやく正式名も「千葉みなと」になった。


103系(西船橋・1988.10.2)(f)

ヘッドライトが1灯のクモハ。ATS-P取付前なので、運行番号窓は健在。
中2の私は思いっきりフラッシュを焚いてしまっている。発車ギリギリではなかったけど、運転士さん、ごめんなさい。



103系(西船橋・1988)(d)

新木場・蘇我延伸に備えてATS-Pを積んだクモハは、武蔵野線用車両同様、機器スペース捻出のため運行番号窓が塞がれた。
西船橋高架ホームは9・10番線のみが10両対応で、この南船橋方の端に立つと8両対応の11・12番線のホームは見えない。


103系(西船橋・1988)(f)

ATC対応タイプで乗務員室扉後部の戸袋窓がないクハだが、低運転台車との併結時のバランスを考えてJRマークは低い位置に付けられた。



103系(西船橋・1988)

総武線所属ながら京葉線の予備車も兼ねていたラシ302編成。京葉線にも顔を出し始めた頃はクハのみウグイス色で、私は「メロン電車」と呼んでいた。総武線を走る姿も見ていたため「なんだ、もう蘇我から電車が入れるんじゃないか」とも思っていた。未だ私は千葉みなと—蘇我間の開業が後回しになった理由を知らない。




103系(新木場・1988.12.1)(d)

1988(昭和63)年12月1日、京葉線は新木場・蘇我へ延伸。同時に武蔵野線が乗り入れるようになり、水色の京葉線103系は西船橋に顔を出さなくなった。この日以降、西船橋駅9・10番線ホームの10両分の長さが活きることはなくなってしまった。
列車は日中の6連で、組み替えによりユニット窓の後期車が集められた。クハのJRマークは高い位置にあり、新木場開業用の増備転入車と思われる。
新木場方先頭車の「Bay City Line KEIYO」のしゃれたヘッドマークとは裏腹に、蘇我方先頭車は白幕。日中のみ顔を見せる側だが、方向幕に不具合があるのかもしれない。
新木場には半年前に営団(現・東京メトロ)有楽町線が新富町から延伸してきたばかりで、ここに新たな都心への通勤ルートができあがったわけだ。一体の高架となった両線、相互乗り入れの希望の声もあったが、京葉線の東京への延伸準備が進んでいるため実現には至っていない。



103系(新木場・1988.12.1)(d)

開業初日ながら若干さみしい新木場駅ホーム。現在はりんかい線も加わり新木場駅のホームは多くの人が集まるようになった。
りんかい線はそもそもの貨物用の京葉線として計画・建設された路盤・東京湾のトンネル等を活かした路線で、本線から外れたJRの東京貨物ターミナル脇に八潮車両基地を有している。ちょっと線路をつなげば東海道貨物線へ入れるようになる位置だ。



103系(蘇我・1988.12.1)(d)

スカ色113系と183系特急だけだった「房総区間」の蘇我に、通勤形電車が復活。かつては旧国72系やカナリア101系が走っていた時代もあったのだ。


103系(南船橋・1988.12.4)(d)

南船橋を後にする開業マーク付き下り列車。二俣新町から東は通い慣れた道だ。(つづく)

(右フレーム上部から入れるアルバムに、掲載した写真をカテゴリ別にまとめています)

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